自分は自分という世界に生きている。
(何をどう知覚し、どのように行動するか、好むと好まざるとに関わらず、何もかも、一瞬一瞬が“自分流”だ。)
そして、この「世界」の全容を、私は知ることはできない。
この「世界」から、私は逃れることはできない。
私の視るこの物理現実は、私という「世界」そのものだ。
自分は自分という世界に生きている。
(何をどう知覚し、どのように行動するか、好むと好まざるとに関わらず、何もかも、一瞬一瞬が“自分流”だ。)
そして、この「世界」の全容を、私は知ることはできない。
この「世界」から、私は逃れることはできない。
私の視るこの物理現実は、私という「世界」そのものだ。
この現実は変えられない。一方で、自分が捉えているこの現実が、自分の人生の全てではないというのも分かる気はする。
人は死んだら消える、無になる、というのは、あくまで思考である。
まだ死を体験していない者の思考である。
実際に本当に消えていたら、無になっていたら、
それを証明することなどできはしない。
生きている人間に証明する手段がない。
「無」とは概念である。実在ではない。
従って、「無限」も概念であり実在ではない。
(「無限」というものを「実際に」「見た」人はいるだろうか。億が一いたとして、それを何らかの手段で証明できる人などいるだろうか。おそらくいないだろう。)
可能性は無限ではない。
無限に思えるほど、沢山ある、ということである。
人の可能性も有限である。
但し、少ないということでは決してない。
人は自分を完全に知るということは、永遠にない。
いま知る自分が、自分のすべてではない。
生きている。
なぜ生きているのか分からないと嘆いているときでさえ、生きている。
存在することの不思議。
私たちは私たちのすべてを知ることはできそうにない。
私たちは自分の考えや感情、素直な本音を、知らぬ間にジャッジしている。見事なまでに、呼吸するかのようにごく自然に、四六時中ジャッジしている。誰からよりも先に、自分で自分をジャッジしている。それはそれで全くかまわないのだろうと思われる。ただ、そうしているだけだ、極めて無意識的に、習癖的に。それで知らぬ間に、苦しんでいることもあるかもしれない。さほど支障の出ていない時もあるかもしれない。いずれにせよ、私たちにはどこか、そういう癖があるように思われる。